MINO企画ブログ ダメ出し悪魔 |
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「英語ができるということは、何かの機械の取扱説明書を理解できる能力を身につけるのとおなじことだ。」
たとえ何年生でも、私が最初に受け持った高校生たちに言うことである。 「スイッチを押す順番を覚える前に意味なんか考えるな、邪魔になる。」 「英語を小学生から教える」という方針に、賛否両論が沸き起こっている。ブログの世界では反対意見のほうが多いようである。おそらくはあの「ゆとり教育」の失敗から、打ち出す政策への根本的な不信感もあるのだろう。 「学歴だけ高いやつらが勝手なこと言っているだけで、現場や子供のことをぜんぜん考えていないじゃないか」 「英語」を必修にする、は、実はまったく意味のない言葉の羅列だと思う。決定的に言葉が足りない。 教える側から言うと、「外国語」はまずは「道具」であり、それを前提とした上での「学問」が存在する。私が教員になった20年前くらいから、高等学校でも、それまでの「学問」重視の英語教育を「道具」にも振ろうという試みが続けられている。ALT(外国人指導助手)の導入と強化(関係ないが18年前、中津川市に来たはじめてのALTが私の目の前で、生徒と腕相撲して腕を折られたことがある。クビになるかと思った。)、オーラルコミュニケーションという授業の必修化、英語教員のコミュニケーション能力を向上させる研修強化、などなど。 ほとんどうまくいっていない。 私が教員になった20年前と、英語教育が変わったという実感は、ない。 「英語なんかできなくていいよ。だって私、日本人だもん。外国旅行だってしたくないもん。」20年前も、今も聞く。 「道具」としての英語を習得させる「目的」を社会が示していないのだ。試合もないのにスポーツの技術を磨くだろうか? 発表の場もないのに演奏能力を磨くだろうか? かえって社会人になってから、企業によっては英語の「道具」能力が必要になり、新たに英会話学校に通っているのが実情である。学生や、一般の社会人に「道具」を磨く目的がない。 一方、「学問」としての英語には「受験」という「目的」がしっかりと存在している。 この「小学校英語必修」も、目的のはっきりした「受験」に飲み込まれるか、結局なあなあになって、「ゆとり」の二の舞になる。 変わらなければならないのは「下」ではなくて「上」である。小学校ではなくて大学であり、社会である。 シンガポールのような、英語公用語化にでもしなければ、この方針が成功することは、ありえないと思う。 でもそんなことできないよ。「愛国心」が基本だから。 「英語なんかできなくていいよ。だって私、日本人だもん。」 愛国心に満ち溢れているね。
by mino-evilkind
| 2006-04-16 15:49
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